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【やねこじき】発生の謎   (2010年10月)

JA5CLB 河野繁美

近日TVのローカルニュースで流れたタイトルだが・・・
私が生まれた旧阿波郡(現阿波市)市場町町筋に上記タイトルの行事が有る。

 

どういう物か?と言うと、学校の文化祭や学芸会展示物の如く、
何かをテーマにして、菊人形展の菊花抜きみたいな物を作っては、
民家や商店の軒先へ展示するという物だ。

 

何故、そんなことが始まったか?と言うと、
それは、この阿波国(現徳島県)全体を、戦国大名の蜂須賀家正が
領することになり、領内視察で来た事に始まる。

 

現在の この地 市場町町筋という南北に延びる街道筋は、
その名の通り、戦国時代の阿波国内(阿波郡ではなく、現徳島県全域)で
最も民家・商家の多い地域だったと思われる。

 

蜂須賀家正も、そう思って視察に来たに違いない。

 

この、新領主:蜂須賀家正は、小説太閤記などで有名な
豊臣秀吉の腹心:蜂須賀小六正勝の息子である。

 

父親の蜂須賀小六は野盗などと揶揄されるが、それは小説の影響で
実は尾張の豪農出身。その後 手柄を重ね、阿波を拝領する前には
播磨竜野の領主だった訳で、本州の栄えた街々も熟知していた筈であろう物。

 

・・・・処が阿波国一と思えた、その町並みが・・・・戸数17戸と寂れていたとは、
歴史書の記述。・・・その理由は???

 

この町筋という通りと平行に北から南へ流れる吉野川の支流:日開谷川が
暴れ川だったので、度重なる水害に、領民が逃げ出して
居なくなってしまっていたと言うのだ。

 

それで、新領主の家正は、復興策として、この地域の年貢を無税とし、
領民の復帰と街の復興策にしたと言うのだ。

 

今この町筋通りと日開谷川の流路は何百メートルも離れて平行している。

戦国時代の当時は、通りの西に沿った民家の裏側が直ぐ日開谷川だったのだろう。

っと言うのは逆の東の方に同じ位の距離にある河岸段丘も、
日開谷川による扇状地が同じ日開谷川で削られて出来たに違いないのだから、
その位の幅で、流路が変わっていた事は容易に考えられる。

 

筆者が子供の頃、この河岸には、祖父宅のスイカ畑が有り、
収穫に行っては現地で食べた。

又、この河原の中央には、時によって水が流れており、そこへ行って泳ぐ事も出来た。

 

処が、この河原の下流(吉野川本流と近い所)に架かる橋も、
モット上流の旧・伊予街道(国鉄バス山手線の路線)に掛かる橋も
毎年の様に流失していた時期があり、河岸の石垣堤防からはブルドーザーによる、
砂利での斜面路を仮設して河床を道路に作り直していた。

そうする直前には、吉野川本流に近い道路を通る方の国鉄バス路線も、
山手線の国鉄バス路線も、互いに、どちらか無事だった側へ遠回りするという
変速遠回り運行もしていたのを記憶している。

 

遠回りでなく、河床への乗り入れの場合、当時のボンネットバスでは、
後輪に荷重が掛からず、砂利の路面で、しかも急傾斜の、堤防への
上り下りがスリップして難しそうでした。

そういう事を、運転席横や、脇に座るし、窓から顔を出せばタイヤを見て、
よく観察しています!・・・確かに昭和30年代後半も暴れ川でした!

 

余談だが、その河岸段丘・扇状地上には中学校の運動場が有り、
太平洋戦争中に、その運動場を中心とした海軍の飛行場を作ったそうです。

河岸段丘の段差が丁度、航空母艦の飛行甲板に似ているので、
離着鑑訓練に良いのか?徳島練習飛行隊(松茂)の第2飛行場となったそうです。

周辺の畑も含め中学生や農家の人々を動員して、畑を地均しし堅くしたところで、
終戦なのか?又も畑に戻す重労働でゲッソリしたという、笑うに笑えない話でした。

 

TVのクイズ番組では無いですが、此処で疑問です。

 

先の話で、町筋の町屋が17戸に減っていたと言います・・・・
これは、戦国時代が終わって、直ぐの頃の話ですから400年前程度でしょう。

処が、この街の同じ地区へ、もっと前の85年前に住み着いた、私の一族が、
それだけで、20戸近く有った筈なのです。

???他の家々は?マイナス3戸以上とか??? 

・・・何か「世界新記録よりも日本新記録の方が凄い記録だ」って様な話です。

 

この逆転したような話を裏付ける様な話も残っています。

街全体の戸数を氏子にすべき若宮神社と、我が一族だけの氏神とで、
社殿が交代してしまった様な話が、伝わっているのです。

口伝、口承と言うのも、まんざら、嘘ばっかりじゃ無いみたいです。

あちこちの話が、口裏を合わせたわけでも無いのに、符合一致するのです。

 

戦国時代の時の、この町筋通りは、無税を喜んだ領民の側で、
次の訪問時に領主を歓迎する催し物として、この行事を行った。

民家や商家に軒下に色々な飾り付けを工夫して行ったのだ。

其れを見た領主;家政「これは何だ?」

領民が方言で答えて、「ヤネコイもんでごぜえます」

家政「ほほう屋根の乞い物カア」ット言う応対の齟齬が生じて・・・
【屋根乞食】と言う名前の行事になってしまったという話なので有りました。

 

此処までは、「市場町が当時の阿波国一の町並みだったと言う説」以外、
歴史書に書かれている通りの事です。

 

さて残るは「やねこいもん」の言葉の解説です。

領民の方は、方言の【ヤネコイ】という 形容詞で、自分たちの歓迎行事を謙って、
表現しているのです。

つまり、「つまらない物です」「くだらない物です」と言ったつもりだったのですが、
他国者(他国育ち)である家正の方は、それが解らず、
「屋根の下か?屋根付きか?の乞い物(物乞い=乞食)」っと解釈した。

 

この部分のヤネコイに注目しよう。

標準語でも、まだるっこい。粘っこい。すばしっこい。・・・と言う言葉なら、通用するでしょう。

あの要領のアクセントというか?イントネーションというか?ああいう感じです。

当地では、他にも、トロコイ(とろい=鈍い)、逆のサドイ(聡い=すばしっこい)、
ジャラコイ(柔らかい=軟弱)など使われ、ヘラコイ(狡賢い)等、使われていますが、
この中のジャラコイが、ヤネコイには、発音的にも、意味的にも最も近いでしょう。

軟弱で粘っ濃いのでダメだ!って雰囲気の言葉です。

 

私は、現地で生活した事は無く、時々祖父と会った程度ですが、その祖父が
「彼奴はアカン。ヤネコイ」等と口にする雰囲気で体感が出来ては居ました。 笑 (おわり)

 

続【やねこじき】発生の謎…文化・芸能と乞食 へ続く >>