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体育科スポーツクラブの欺瞞  (2010年6月)

JA5CLB 河野繁美

世の中にはスポーツマンシップなどと言って、
スポーツマンが公正な精神であるが如く、騙されている人も多い。

・・・そうやって、宣伝している程「実は逆だからこそ、宣伝が必要な状態なのだ。」

宣伝しないと、持たない状態までに陥っているのだ。

説明しよう。

 

スポーツというものは、汗を流す程、同じ事を、何度も何度も何度も練習して、
その中から、僅かな相手の隙を見出しては、その隙に着け込んで勝利を得ようと云う、
卑怯な精神構造の事なのだ。

もっと云えば、勝つ為ならば、手段を選ばず、あらゆる卑怯な手段・禁じ手を使っても、
とにかく、勝利を得る事だけに没頭する・・・と云う、コレがスポーツの精神だ。

 

 「いや、そんな事は無い」っと言う主張をする人も居るだろう。

「その為に、あらゆる規則を設けて、皆に公平に、しているのだ」っと言う事だろう。

処が、この「規則による公平」こそが、身勝手な事なのだ。

新参者を閉め出す為の規則、新規手法を使わせない為の規則・・・
全て、その方向に出来ている事ばかりなのだ。

そのくせに、その内の一つを言い出す直前までの事は?と云うと、
無制限・・・と来ている。

コレで、勝手都合なばかりの一方的事だって判るだろう。

 

さて、コレを、スポーツと言えるか?どうか?子供のチャンバラごっこに、当て嵌めて、
検証してみよう。

だいたい、子供の間でのチャンバラごっこというモノで、強いのは誰か?っと言うと
・・・・・年長者で腕力の強い者っと云う事だろう。

其処で、その逆の年少者で、腕力の無い(筆者の様な者)が勝とうとすれば、
どうすれば好いか?っと言う事で、過去には切実だった問題に行き当たる。

(実に例示し易い!)

 

先ず模擬刀(木刀や竹刀に玩具の刀)で、向かい合って、斬り合いに入ると・・・・、
刀身同志の叩き合いになるか? 最後には刀身で体の一部を叩いて・叩かれて
(斬って・斬られて)勝負する。

この最初の刀身同志の叩き合いの段階で、腕力が弱く経験の無い筆者などは、
衝撃によって刀を落としてしまう。

この時点で、もう腕力経験年齢身長など、全ての項目に於いて、
不公平が生じているのに、ソレは勘案されない・・・。

そこで、「刀をたたき落とされる前に、斬り合いに入ってしまい
相手を斬る方法は無いか?」っと言う事になる。

単なる速さ敏捷性を云えば、腕力経験年齢っと言う点が、再び、効いて来て、
負ける事が判ってしまう。

 

ソレでも勝てる可能性は??ッとなると、長い刀を選ぶ。

すると直ぐに「長すぎる刀がルール違反だ」っと言い出されて、駄目になる。

次に「刀ばっかりが武器じゃない」っと、槍、長刀(ナギナタ)鎖釜、などを主張するが、
コレも拒否されて、遂に、弓矢を主張しても、「飛び道具は卑怯だ」などと
云われてしまう。

 

・・・・が、江戸時代の様な、格式・作法を云う時代に入っても、
槍は武士の主要武器だったのだ。

「やあやあ我こそは!」って、名乗りを上げて戦う程の武士ならば、
シッカリと【槍持ち】という部下を伴って、出掛ける程だったのだ。

又、コレに加えて、【挟み箱持ち】という衣装や書類を入れる箱持ち(今なら鞄持ち)と、
草履取り(訪問先の邸宅玄関で、下駄箱代わりに、履き物を、持って待つ係:
織田信長の、コレを始めに、出世したのが、豊臣秀吉)・・・っと3人を、連れ歩くのが、
普通で、その不足を恥じて『みっともない』という言葉が出来た程なのは、
本誌:我が社 社報『エイ・オー』の読者なら、既報にて、御存知でしょう。

 

更に、卑怯というと云う飛び道具・・・にしても、弓矢の方が合戦の
主要武器なのでした。

戦死傷者の死傷要因を分析した古文書が各地に残っているのを見ますと、
殆どが、投石と弓矢の傷でして、刀傷なんて、殆ど無いのです。

刀は切腹と首を切られたのだけ!爆笑・・・

 

戦国時代に弓矢の一部が、鉄砲に取って代わられていますが、
相変わらず弓矢も残ります。

ソレは、当時の火縄銃に問題が有ったのです。

雨天だと火縄が消えて発砲不能なのと、火縄の臭いで気付かれて、
近接使用不能だった事。

 

・・・・長くなりましたが、マア、そういう訳で、「チャンバラごっこに弓矢が駄目」って
云う方が不自然なのでした。

『飛び道具は卑怯』なんて、【武器規制を掛ける側の方が卑怯】なので在りました。

 

・・・以上チャンバラごっこという初期的スポーツに含まれるか?と言う者の
不公正さ!理不尽さを例示して見せました。

 

少し話を元に戻しまして、スポーツマンの鍛錬訓練・・・・コレが、同じ事を
何回も何回も繰り返して、上手になるまで、ヤルのは周知の事です。

この事は、スポーツに限らず、文化系でも、習字、絵画、茶道などに、言えてます。

 

何が共通してるか?

先ず、馬鹿でも出来る位に同じ事を繰り返す・・・・・。

筆者には、幼稚園や小学校に於いて既にコレが苦痛でした。

百回、千回と繰り返して百分の一、千分の一と云う程しか向上変化しない事が
既に見えている。

或いは、それほど僅かさえも変化しない事の方がハッキリしている・・・・

ソレなのに、「努力すれば必ず報われる」ッと『嘘を言って強制強迫されて』
従わされた経験。

目上の者は皆嘘つきだ!全員死んでしまえば好い!
大きくなったら子供の国を作ろう!ッと思いました。

 

ソウ「大きくなったら御前も、御前こそが大人じゃないか?」って話が成立します。

でも、この言葉、コソが、そういう人達が、何時も使う「ソレは理屈じゃ」です。

屁理屈です。

理屈では「その通りに言えるってだけに過ぎない」のです。それだけです。

事実は「『自分以外の』大人を全部殺しちゃえ」って、意味合いの中の
『自分以外の』を、都合好く抜かして解釈しておきながら、ソレを『理屈』なんて
云ってるのです。間違った『理屈』なのに・・・。

良く考えてみて下さい。『自分以外の』なんて定義しなくたって、
『殺す』って云ってれば、ソレは、動詞なのですから、主語たる側の自分ってのは、
殺す側であって、殺される側に入るなんて筈がないのは、日本語以外の言語でも
明らかです。

ソレを、曲げて、変に解釈して因縁を付けようとしている側の方が
「ああでもない、こうでもない」っと、理屈を、こね回している側でしょう。

 

コレこそが、先に述べた、スポーツマンシップの「勝つ為には手段を選ばない」事の
証拠です。

この論法を、スポーツマンも使う。親も使う。教師も使う。

・・・・つまり、コレは、正当な議論で、袋小路に追い込まれて、どうにもならない程に
成った者が使い始める言葉と論法なのです。理屈っと言う言葉が出たら、
出した人物の主張は破綻しています。

 

そして、その次には、感情論が出ますが、ソレは、自分の側だけの身勝手だけを許す
感情論で、相手方の感情論は無視です。この時、相手方も、思いっきり感情論を
ブッツケましょう。

スポーツマンシップで?何もかも公平に!…(終)