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TOP > AO技術講習集 > 神系線(神のネットワーク?)歴史的な我が社の物作り 第1話

三島神神系線(神のネットワーク?)

歴史的な我が社の物作り 第1話

JA5CLB 源突破苦労 河野繁美智

「シンケイセン」と読む言葉のタイトルですが普通は、
「神経戦」という文字が出て来て神経を病む様な戦いの事でしょう。

ですが、此処は違う意味です。

何時も筆者の意味する処は、別の文字を充てるパロディーにして有りますので、
御注意下さい。

 

こうして別文字を充てる事を、何故多用するのか?・・・っと言いますと、
充てている別の文字と言う物が、既に皆さんに耳慣れた言葉であるからです。

耳慣れた言葉(即ち学習済みの刷り込まれた言葉)ほど、
語感が好く、印象に残り易いのです。

人間の脳での記憶構造は、その様にして、蓄積されて行く物なのです。

似た様な物同志を纏めて整理・分類・統合したり、
正反対の物を対照・対比したりしながら記憶を増加し深め明確化して行くのです。

その過程で生じるのが、ホラ来た!又来たっと言うパターン・マッチング・・・
悪く云えば、「馬鹿の一つ覚え」現象でも有るのです。

そういう事を上手く利用して売上を伸ばそうって云う商法が、
キャッチコピー(キャッチフレーズ)や、CMソングの世界です。

語呂の好い、発音し易い、聞き慣れた言葉を使って、
自社商品の名や、好い点を、世間に言い広めるのです。

この手法で、売ってきました。御理解下さい。
洒落、川柳、狂歌にしても、この様に、同じ(又は似た)発音の物を
引き合いにしては、聴いた者に想像させて居るのです。

洒落、川柳、狂歌などオッカシイのが、面白可笑しい程、
覚えやすく、忘れ難いでしょう。それこそ、効果の有る証拠です。

 

さて、今回のタイトルは大見栄!!!正に大きく出た!タイトルです!

今回は、この話が大き過ぎていない事を、史実に照らして証明して行ってみましょう。

うっふっふ・・・・普通は、此方から手出しする前に、
もう既に(先に)何か相手にダメージが起きてしまっていると云うのが、
過去の経験でした。

・・・・と云うのは?・・・早とちり(ウッ有りそう!汗)・・に拠る、
先手早期奇襲攻撃???・・・そーんな事は、決して無い筈で、
全ての場合に於いて筆者は何一つ手を下していないってのが明らかです。

相手が自然に、陥ったとかぁ・・・変???

だからぁ、それを「神が手を下すネットワーク」と呼ぶのです。(笑)

他に何と言いましょう?。

マア、そのネットワークは、攻撃だ防衛だって物ばっかりじゃありません。

信頼と協力関係のネットワークだって有ります。

それを、これから皆さんに、実例提示して行きましょう。

 

此までのいくつかの記事から、「又出た」ッと思う方も居ましょうし、
初めて読む方でも、勘の好い方は、筆者の姓「河野」の文字を見て
(文字ですよ。読みじゃあ有りません。読みなら筆者のカワノじゃなく、
コオノじゃないと、歴史的に話が合いません)河野水軍を
思い付いた方も有ったでしょう。

その河野水軍や、後の村上水軍が氏神としてきた、
愛媛県今治市の大三島に鎮座する旧・三島神社
(現・大山祇〔オオヤマズミ〕神社)は、海賊の守護神ってばかりじゃあ無いのです。

実は、それよりもズット前の日本神話〔海幸山幸の時代〕から、
物作りの神、産業の神で在ったのです。

それが、海の神〔海上戦闘神〕になってしまったのは、
何の事も無い、この、海幸山幸神話自体での山幸彦の勝利による、
海幸の権利掌握に比喩される事実でした。

元々山の神だったのが海の神も兼任したので、
海の戦闘の神、即ち海賊の守護神と、なってしまったのです。

 

さて、此処で、海賊と一言で言いますが、この海賊の意味には2種類、有ります。

先に河野水軍、村上水軍っと述べました、「水軍」の意味での海賊が一つ。

此は、好く、日本での海の武士だと言われまして、
マア、古代や中世の海軍だと言われて居ます。
しかし、筆者は、チョット意見が違います。

それは、海軍でなく、海兵隊だという事です。
海兵隊とは?・・・軍隊の中で、陸軍、海軍、空軍、に次いで生まれた
第4番目の種類の軍隊です。

今、沖縄の普天間基地からの移転問題で揺れているのがアメリカ海兵隊で、
英語ではマリーンとかマリーナーとか呼ばれます。

何故、こんな種類が必要だったのでしょうか?

実態を最も好く日本語で表せば、水際上陸軍という事です。

彼らが最も活躍したのは太平洋戦争末期の、同じ沖縄と、硫黄島です。

硫黄島の戦いは最近、日米両方の映画になって、よく知られているでしょう。

海軍の様な船での戦いではなく、陸軍の様な陸での戦いとも言えず、
両方を一体に連携して使う激しい戦闘様式なのです。

其処で「両方の連携という形式では上手く行かない」との認識から
新たに設置編成されたのが近代の海兵隊です。

しかし、日本では、古代や中世から、こんな物が存在する程
進歩していた????っと言う訳じゃあ有りませんで、
自然に、そうなってしまっていたのです。

日本の水軍というのは、先ず、陸軍の補助として、
水上〔河川や湖上〕海上での物資輸送役だった事が、一つ。

関東では武田、北条、徳川に就いてきたという水軍。

向井氏:向井将監の名も歴史に残る・・・オオッ、我が社の監査役の先祖か!
蜂須賀氏の阿波国入府と共に水運の為に、吉野川中流へ進出し、
当時の美馬郡脇町へ江戸時代に定住したと考えれば、話は合います。

 

もう一つは船の上でも陸上と同じ様に、武将自身が戦った事が一つ。

西洋の大航海時代の様な船の戦いとは言えません。

源義経が、屋島や壇ノ浦で平家と戦った時の戦記ドラマ等を思い出して下さい。

船上から弓矢を打ち合ったり、乗り移って刀で斬り合ったり、
殆ど陸上の戦いと同じですが、此は、水際にも、拡大して行われます。

朝鮮半島や中国沿岸へ遠征したのが前期倭寇です。

但し、後期倭寇というのは殆どが日本人じゃなく、
朝鮮人や中国人による偽倭寇らしいです。

倭寇と名乗るだけで十分効果があったのです。

メイドインジャパンの偽商品並みです!(笑)

この状態の戦闘法は、今もマラッカ海峡やソマリアの海賊達の
戦法として残っています。

オット、此処で言う2海域の海賊とは、此まで説明した、軍事輸送隊でもなく、
水際戦闘の海兵隊でもありませんで、船上戦闘には違いないだけで、
目的の方が、強盗の、海賊です。

此処で「同じ」状態の戦闘方法というのは、時には偽装した小舟で近くへ漕ぎ寄せて、
相手の船へ登り、相手の船上で当時は白兵戦を演じ斬り合って戦う、
(最近は銃撃戦を演じ、マシンガンを撃ち接近戦で戦う)という物です。

マラッカ海峡では、この何年かですが、日本の大型タグボート〔韋駄天〕という名の船を、
インドネシア船籍の漁船を装った(実はマレーシアの)海賊船が、襲撃し、
船長を人質に身代金を要求しました。

ソマリア付近では、同じ様な戦法の海賊が多発するので、
各国の海軍が警備に軍艦を共同派遣しています。

日本の海上自衛隊も行ってます。

この手の戦法の有名な物は、強盗的な海賊行為でなく、
軍事作戦的に使われた事も有ります。
それは、蒙古襲来(元寇)の時で、この時、日本の水軍は、この手で、
蒙古の軍船に襲撃を掛けて大戦果を得ました。

かつての日本史教科書に載っていた様に、秋の台風によって
蒙古の軍船が沈んでしまったと言うばっかりではなく、
日本側は、かなり善戦していたらしいのです。

それは最新の水中考古学によって、博多湾の海底遺物から明らかになった様です。

この攻撃を掛けた者こそが、我が河野水軍の河野通堯、河野通有、河野通忠の
3世代の大将です。

最年長と思われる通堯(阿波国冨田庄地頭;河野通久の兄弟で、通久と共に、
河野通信の子供です。)は、この戦で負傷し、船中で死亡した…と在りますので、
帰りの船中でしょう。

 

【河野通信】とは源平合戦の時、屋島、壇ノ浦の両戦時に、
軍船を出して源義経に加勢して大手柄を立てたのですが、
後に義経と、頼朝の間柄が悪くなると、幕府からは、
「義経の軍略と河野の軍勢が結びついては怖い」と疑いを掛けられ、
呼び出されています。
神奈川県付近に代々住んできた政治家の河野謙三、一郎、洋平、**ッと続く一族は、
ドウも、この時に呼び出されて定住したっぽい????鎌倉幕府にも近いしね!・・・

 

通久の子の通有は、通堯同様に負傷した様ですが、命は取り留め、その事で、負傷の大手柄と評されています。通有の嫡男通忠は負傷もなく無事帰還した様です。

 

要するに、歳の(世代の)順に、死亡、負傷、無事・・・・なのですが、
総司令部たる鎌倉幕府側では「この戦法は、戦果も大きいが、
味方の損害も大きく危険であるから中止せよ」との命令を出しています。

ビビってる! 笑・・・
一方、この勇敢さ以外に、陸戦(水際防衛戦)でも、日本軍の防衛は結構優秀であり
負けては居ません。

その中で、又も、河野水軍の勇敢さが、博多沿岸住民の間に噂されて、
諺の様になって残っています。
それは【河野の後築地(うしろついじ)】と云う言葉です。

蒙古軍が、博多周辺へ上陸してくるのに備えて、
鎌倉幕府は、全国の御家人を動員し、海岸線に石垣を築きました。

此は【元寇防塁】として、今に残っています。

押し寄せた蒙古軍は、兵隊や馬を降ろして博多の町を占領しようと
焼いたりもしましたが、幕府御家人達の防戦が厳しく、殆ど進撃できなかったようです。

其処で体勢を立て直し翌日再攻撃を画策して船に引き上げた所で
例の暴風雨となった様です。

ですから、引き上げるまでに、結構、遣られていた残骸が、
海中から現れるそうです。

さて、その中で特に、勇敢という【河野の後築地(うしろついじ)】は?・・・
普通は築地(防塁)を折角作ったのですから、その陰に隠れたり伏せたりして、
蒙古軍の攻撃を防ぎながら、敵への弓矢を討つ攻撃をします。

処が、河野水軍だけは、ソウせずに、何故か??この築地(防塁)の前側に出て
戦っていたと言うのです。

其処で、敵の弓矢を怖がらない・・・と云う意味で【河野の後築地】と云う言葉が出来、
後々までも、その勇猛さが語り継がれたそうです。

実は、前面には何も無いのじゃなく、陣幕を張っていたのです。

陣幕とは布です。**幕府とか、幕僚って言うでしょう。

アレが、その名残の様な言葉です。

敵に弓矢に限れば射られても、実は布1枚で防御可能な事を
河野水軍は知っていたのでしょう。

敵の蒙古軍が使う弓矢は和弓と違って短いので貫通力が非常に小さい。

倭寇などからの海外貿易情報通の河野水軍としては、平気だったという訳です。

これを知らない一般人はビックリ!っと言う訳です。笑

そういう裏話って沢山 有りますよ。 (つづく)