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マサカッの新町怪談  (2010年7月)

JA5CLB 河野繁美

【まさかっ】っと言うのは、最後の文字が、小さい拗音ですから
「まさかっ (そんな事は無い)」っと言う風に驚きの声の一部です。

大文字の【まさかつ】ではありません。漢字の正勝でもありません。

 

漢字だという事になれば、皆さん、未だ耳に覚えのある、参議院選挙での、
某現職候補を思い出しておられるのでしょうか?・・・・

 

歴史通の方は、本県の始まり・・・豊臣秀吉から、ほぼ阿波一国を拝領した
蜂須賀小六正勝・・・の事を思い浮かべていましょうや???

筆者が、**正勝参議院議員候補の時代に生きたか?蜂須賀正勝・入国の時代に
生きたか?・・・まさかっって考え込んでしまってるんじゃ無いでしょうね!爆笑!

 

筆者が、育った地の新町というのが町はずれの田畑しかない様な地域で、
商店街の賑わいなど無かった・・・と云う事に成れば、この蜂須賀小六正勝が、
この現・徳島市へ着任した頃の風景に違いない・・・・ッと判る、歴史通の方が、
何人居るのでしょうか?

少なくとも、今回の参議院選挙の候補に出ていた某現職の方が、本県へ、来て、
本県の県庁所在地市長選挙に出馬しようか?っとか、住もうか?ッとか言う
時節で無いのは確かでしょう。

 

前者:蜂須賀小六正勝が来た頃ならば、賑わいどころか、閑散とした町はずれが
新町であり、町屋で賑わっていたのは、その手前に存在した内町と云われる地域しか
無かったのです。

他には、大道、佐古、蔵本、助任、沖の洲迄位が、大昔(鎌倉時代)からの纏まった
村落領域です。

それら周囲を総称して、阿波国、名方郡、冨田の庄と言います。

阿波国とは、別称阿州:現徳島県の事です。

名方郡とは、現在の名西郡名東郡を会わせた地域の総称で、
以前は、東西に分かれて「なかった」郡なのです。

 

冨田の庄とは、現在でも、徳島市内で「旧市内」っと言えば、市民の間で何となく
判る範囲(国府町、応神町、川内町、津田町、八万町、等を除く範囲)の事で、
昭和30年に合併で徳島市になった範囲を含まない範囲の事です。

 

富田の庄という荘園名は、奈良春日神社の荘園として、
此処に存在したのが、始まりで、今も眉山の裾に春日神社は存在します。

その頃、阿波国内は、畿内の有名な神社仏閣による荘園だらけだったのです。

ソンナに阿波が畿内との結びつきが強かったのか?と云えば、
確かに、そういう面も、有ります。

しかし「地元民の側から、とりまとめて『荘園領だ』という名義にして貰って、
国からの課税を逃れた」と云うのが実態です。

 

つまり阿波中が、何処も、此処も皆、税金租税逃れの体質だったと云う事です。

そして、この租税という物は、本当なら誰に納めるのか?っと言うと、国です。

この頃の国という物は、国府という地名の場所に庁舎を置き、
其処で、役人が居て集めて蓄えて、一括した物を、都(奈良や京都)へ送る
・・・・というシステムでした。

 

しかし、この頃既に、大規模私有地の制度が出来ていたのが荘園です。

神社仏閣の他、手柄のあった貴族など、その対象は、ドンドン増えました。

これら荘園は、都の国(天皇家:帝)の処へ租税を納めなくて好いのです。

領主様に納めるだけで好い。

その領主様は?っと言うと、当然、帝よりも、安く決めてくれる。民営業者です。

ソレで、皆が、国営よりも民営を、好んで、民営の皮を被る偽装に走った訳です。

最近の筍やワカメの産地偽装に始まった物じゃ無く、
歴史と伝統のある物だったのです???・・・・

 

その一方で「都へ租税として納める、大豆の出荷を、出荷地の川湊:第十近くの
地頭である柿原氏が度々強奪して行くので、取り締まって欲しい」っと言う陳情文が、
京都の六波羅探題へ出されて残っていたそうです。

 

【現代に残る第十という地名】

第十の堰としての、10番目のせき止め場所と言う意味か?と思ったら、
もう一つの説があって、ソレが、此処に出る、大豆の集荷集積地:出荷川湊の事
だそうで、この大豆が、第十と訛ったのだという事でした。

 

【柿原氏】

荘園が多いという話は、出しましたが、この近く、吉野側北岸に柿原庄と言う荘園が
存在し、割合上流側の内でした。

その地名を名乗る、土着の武士が地頭に任命されて居たのでしょう。

 

【地頭】

本来、租税は領主が徴収受領する物ですが、殆どの荘園領主という物は、
京都や奈良の神社仏閣で有ったり貴族でした。

すると、現地には不在であり、現実の徴収能力を持ちません。

其処で、後に言う代官としての実行役を担う、地頭という職制が設定され、
地元での、警察権と租税徴収権を行使しました。

此処で、警察と税務署という一見無関係な組み合わせに現代人は驚くでしょう。

処が、租税という物は古来、物(物納)や金だけではないのです。

労働による納税と言うのが、近代以前には、結構当たり前に行われていたのです。

その意味では、人間を強制的に拘引して、強制労働させる・・・・懲役何年!
・・・と云う、刑務所的な警察権も、普請と称して、城や堀を作らせる領主・代官による
労働奉仕も、極めて近い存在なのでした。・・・

地頭の子孫(同じく筆者の父)が戦後の職に税務署を選んだのは如何に???・・・

 

所変わって英国にも興味深い話が在ります。

今で言うフリーターが真昼間から町でブラブラしていると・・・・、ネービーギャングと
名付けられた公務員(名の通り海軍軍人~日本では警察(ポリス)なのにイギリスでは
ギャングか???~)達が、やって来て、強制連行していって仕舞うのだそうです。

そのフリーター達の運命は?・・・・・海軍へ強制入隊させられて、
漕手にされてしまうのです。

ローマ時代なら、それは奴隷の仕事です。

当時の話というのは、ネルソン提督だのトラファルガー海戦だのという、
まだ帆船時代の事で、帆船の軍艦(軍艦に限らず、商船も、遊びのヨットも
同じ事で)は、帆走によっての自力出港が不能だったのです。

オールを沢山両舷に出してだして、ワッセワッセと漕いで出港する。

 

他にも、やや労力の少ない方法が有って、商船や、海賊船(私立海軍船:
プライバーティアと云い、現代英語;プライベートの原語となった:私略船と訳する)
等は、次の方法を採ったが、戦場での白兵戦・上陸戦などで人手の多い方が
好都合な海軍では、漕手を増やす策を好んだのです。

 

更に、軍艦の場合、この大勢がオールで漕ぐ方法を好んだ理由は、もう一つ。

入出港以外にもあります。

洋上での風が無い場合の運動性、操船性の問題です。

敵との戦いでの優位性という問題が在ります。

位置や速力というのは武器の一つなのです。

 

源平合戦の壇ノ浦の戦いの場面でも、
潮流に乗った側が優位に立った話は有名でしょう。

 

別の出港法:大きな錨を伝馬船に積んで、前方へ伝馬船を漕いで行き、
錨を海中に投入する。

その錨のチェーン又はロープを本船上から巻き取って前進する。

錨の真上まで来た本船は、錨を空中まで巻き上げて、又、伝馬船上に載せる。

伝馬船は、又、漕いで前進する。

伝馬船の乗員は2名余りで済むし、本船上で錨を巻くのも、手動ウインチを使えば、
独りでも不可能では無い。

こうして、どうにか、狭い港を出れば、後は、正規の帆走に移行できるのだった。

入港も、ほぼ同じ事で済みます。

 

この事は、現代の小さなヨットとて似た様な事情で、補助エンジンが無ければ、
これらの大型帆船と同じ事をするしか方法は未だ無いのです。

 

話は大きく逸れましたが、問題の新町・・・新町川添いの船場町には明治期まで、
かなり大きな船が入港していた写真が残っています。橋は無かったのです。

 

ソレにもかかわらず、新町川添いの現・徳島港:昔は胃の津
(胃の文字にはサンズイが付いていました)
ここには、外洋大型船は入港しませんでした。

外航船が入港する必要が無かったのです。

外航船は全て、津田沖の亀島の港へ入港して、小型船に荷を積み替えて
阿波国側へ持ち込んでいたのです。

 

この亀島というのは、今、有りませんで、於亀磯という浅い岩場になって
残っています。好い釣り場だそうです。

江戸時代のある日、地震で島が沈んでしまったのだという伝説が残っていますが、
その当時島には1千軒の家が有ったそうです。

源平合戦で義経が大阪から小松島まで航海した時には、
「もうすぐ亀島だ。この島は、***な島で****」ッと、
様子や民俗風土が書かれて居ます。

確かに存在したのです。