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覚悟!   (2010年12月)

JA5CLB 河野繁美

さあ覚悟せい!

 

この「覚悟!」って言葉は、「!」が就いている処に、チョットした意味がある。

単に「覚悟」では無いのだ。つまり、「時代劇での台詞御家老、御覚悟!」っと、
叫んで斬り掛かる彼の場面に似合う、言葉の事なのだ。

 

何を、このごろ、話題にしようと言うのか?っと、いぶかしがる方も居よう・・・・。

 

これは、当社インターネットホームページのBROG上へ社報エイオーに
先行して載せてある記事に対する感想書き込みに対する、謝辞というか、
再反応書き込みという意味も有って、作った文章なのですが、
筆者の子供の頃からの心構えの状態(心境)で、在ります。

 

では、何故?この様な、斬りつける直前の様な心境を、
筆者は小学校低学年の頃から、していたのか?それを語りましょう。

それが、本稿の目的です。

 

実は、斬りつけた事、そのものも有るのですが、
殆どは、逆で、斬られたり殴られたりする事を覚悟して耐える状態に在ったのです。

その痛みに耐える覚悟の方が主体だった訳です。

でも、それだけでは面白く無いので、斬った方も書きましょう。

 

本来の、多かった方の覚悟・・・恐怖に耐えて頑張る意味の覚悟
「覚悟は出来ているな!」っと言う方は、「嫌な事を、無理に、耐えねばならない」時です。

筆者が小学校低学年という頃は未だ昭和30年代前半の、世の中に物が乏しい頃です。

そこで、幼児や少年達の世界でも、強請恐喝が日常的なのでした。

 

他人の持ち物を欲しがっては、最初は軽く「くれ」それ位では、怖がらずに、
引き渡さなかったら「出せ!」と、凄みが増します。

私の様に、強情で、それでも、嫌だと言えば、暴力沙汰となるのです。

 

その暴力の痛み・・・「例え、殴られても、理不尽に自分の物を取られてしまわない」
っと言う、その痛みに耐える覚悟が必要だったのです。

 

まだ他にもあります。

肉体的・物理的痛みでは無い物が、モット小さい頃から、ずっとありました。

家庭内での言葉による精神的な虐めです。

乳児期を過ぎる頃から、理不尽な事を言われ続けました。

幼児期入りして弟が生まれ、弟が幼児期に達した頃には、モット酷い理不尽状態に、
なりました。

支離滅裂を言われ押し付けられるのです。

その幼児期(3歳や4歳の頃)から「また辛い目に遭うに違いない」っと
予測が出来るので、「どうして、こんな目に遭わされなければならないのか?」っと
考え続け、覚悟をして、その場面に臨むのでした。

覚悟をしなければ(我慢できなければ)幼児に、どういう選択肢が有ったのでしょう?

今だから考えられる後知恵です。

(1)家出:

3歳が家出して、どうなります?その頃は家出なんて言葉自体が存在しませんでした。

当然、思いつきもしません。だから後知恵なのです。

(2)破壊活動:

家中の物を壊して回る、だだっ子。

・・・それまでにも、困った時には、そういう時が有り、
そうすれば善悪に関われず、言う事を聞いてくれました。

論理的要求はちっとも聞いてくれない両親ですが、感情的に訴えれば一発です。

 

(3)さて御期待の、逆側の覚悟!・・・「覚悟せよ!」っです。

これは多分小学5年の図画工作の授業中の事。

担当教員は担任の年配女教師でなく、専門の年配男子教員でした。

こういう工作とか、理科とか、はたまた体育実技になると、女教師は不得手なのか?
別の担任教室を持たない男性教師が出てくる例が多かったのです。

その日は、彫塑と称する粘土細工によって、工作机の対面に座っている級友の顔を
作る作業です。

まずは、木の平板から角材を垂直に立てて、その先端付近に横棒を付けて、
引っかかりとし、そこへ、紙か布を巻き付けて針金で縛り、体積を稼ぎ、
その上へ粘土で肉付けして行き、級友の顔に似せて行くという作業です。

材料の粘土を切ったり押さえたりする為の粘土へらとして、「粘土へら」という
本物の竹で出来た「ヘラ」以外に、ナイフの使用も認められていました。

それは、モット以前からで、粘土を使った他の授業の時からであり、
この時だけの事では有りません。

そして、そのナイフというのは、当時、世の中に、好く出回っていた
「肥後の守」という物で、珍しくもない物でした。

幾ら研いでもたいした切れ味には成らないのです。

筆者は、アルコールランプや家庭用ガスコンロで焼き入れをし直してみて
研ぎ直してみたり何度も挑戦しましたが、曾祖父が筆者の為にと作ってくれた作った、
「ドス」と呼ぶ物に比べると話になりませんでした。

そのドスとか、切り出しナイフ等ですと、授業には禁止だったでしょう。

 

覚悟せい!に、戻します。・・・

筆者は、新聞紙の塊で作った芯の上に直接粘土で顔を作るのでなく、
頭蓋骨を作ってから、表皮を作ろうと掛かりました。

そう!、今なら、科学捜査研究所の行う複顔術ですね。

当時そういう知識は誰にも無く、実行している筆者自身も単に、
「紙の芯の上に肉付けして、似た顔に似るなら、モット中間段階が有れば、有る程、
正確で似た物が出来る筈だ」と考えただけでした。

・・・・が、それを考え違いした(また考えのの足りない、頭の悪い)級友の一人が、
ふざけているのと思って、わざわざ遠くの机の方から、歩いてきてまで、
壊しに来るのです。

それが、何度か繰り返されて、「おいっ!もう*回目ぞ今度やったら、
このナイフで切ってやる。ええなっ!」皆が聞いていたはずです。

 

それなのに、奴は又来て壊したのです。

未だ柔らかい粘土を拳骨で殴り潰すのです。

怒っている筆者を尻目に悠然と逃げてゆく奴! 未だ手の届く範囲ですから、
ここぞットばかりに肥後の守で、その背中をめがけて、右肩から斜めに切り下ろした。

袈裟懸けって奴です。

半袖ワイシャツの背中はナイフの後が斜め一直線に走り、チョット両側に引っ張れば
2枚に破れてしまうばかりになってしまった。

そして、その下に着ていたランニングの背中は、同じように繊維が薄くなっているが、
裏から血が滲んできて赤く一直線に染まっている。

 

その級友は即座にこの授業の専門教師まで飛んで行き、言った。

「ナイフで切られた」の何の・・・・筆者が、殴り潰された粘土細工を持ち上げて、
見せ「もう**回目です」と叫んで見せた。

教師は頷いて、それで終わりになってしまった。

この級友の親は、PTAや学校側へ怒鳴り込む事も無く、そのまま終わってしまった。

この級友は3男坊のワルだったのだ。・・・笑

 

【押しても駄目で、覚悟の上で轢かれた話】

この話は、社史の中に「カーチェイス」として出てくる話の事です。

御存知の方には、その旨 お断り申し上げておきます。

 

我が社が創った魅力有る商品「スタンバイ」の全国総発売元という権利契約を、
どうしても、欲しい東京の某業者・・・・この商品は、製品開発時点から既に、
総発売元が決まっており、権利を買い占めているから
「遅い。それを解約するには、一般論としても契約金倍返し解約が必要な上での、
新規契約の契約金として、少なくとも今の3倍程の金が必要」と言うのに
聞く耳を持たず、脅して契約しようとする・・・・

脅しても平気な私に困って、ついには私の親兄弟を脅そうと
当時の実家へ朝4時台に現れた。

「会社で話そう」と走り出した私の車の前輪前にブロックを立てておいたが、
単なる後輪駆動セダンが、踏み割ってしまった。

それを見て、どうしても逃がすまいと、今度は、後輪前に自分の足先を突っ込んで、
「轢いてみな!」っと言う調子が、この業者の応援に付いて来た
某右翼団体の会長・・・・・
アッサリ轢かれて救急車を呼んだが、地元所轄警察署の刑事課に拘留されたのは、
轢かれた側一党・・・・取調室のパイプ椅子に座らせられて、追求を受けショボーン・・・・
っとしているのをマジックミラーの裏から観察しました!爆笑!

 

【切腹と指詰めの覚悟】

筆者が小学生の頃っと言うのは、未だ、戦後という風采を色濃く残していました。

お祭りの縁日には今の私の足の様に装具を付けた人が募金箱を持って立ち、
傷痍軍人と呼ばれておりました。

小学生用の月刊誌「小学*年生」という物にも、戦記物小説が、載るほどでしたし、
漫画も、「ロボット3等兵」やら、「のらくろ」と言う犬世界を
擬人化して描いた漫画ながら、軍人になってるのも有ったほどです。

そこで先ほどの傷痍軍人と言うところの傷痍と言う言葉と、軍人の階級の中での
士官の末端の階級名の小尉が、判らなくなる程でした・・・未だ一つオマケに
戦争絡みで焼夷弾という話まで頻繁に出ていた・・・汗

そういう風に、世の中に未だ、戦争の傷跡が残る社会でしたから、
我々子供達の中の話題も、「お前、今度戦争が起きたら、兵隊に行くか?」っと言う者も
自然でした。

行かないと言えば臆病者扱いされますから、一緒に遊んで貰えないのが、
嫌で、行かないなどと筆者は言いませんが、行かないという者には、
それなりに心の覚悟も必要だったでしょう。

筆者が、行くと言う限りは、弾に当たって死ぬのは痛いだろうなあ・・・
銃剣で刺されて死ぬのは痛いだろうなあ・・・っと、それなりの
シミュレーションをしてみて、覚悟を決めていました。

だから陸軍は嫌だ。

海軍ならドカーンと船と一緒に吹き飛んで一瞬のうちの終わって、
痛いも何もないわ・・・そういう考えに辿り着いたものですが、空気が減って
息苦しいのが続いた中で死んでゆく潜水艦は辛い・・・それが父の職場と知ったのは
小学校になってです。

風呂から出る時も、泳ぎに行って水から自らあがる時も変な掛け声がいつも出る???

「メインタンクブロー」

これは潜水艦が浮上する時のバルブ操作命令でした。

遙か後に判ったのはトップの艦長が「浮上」号令すると、この給排水管系のトップが、
それを下達する時の命令語がその「メインタンクブロー」なのです。

父は本来水雷科で戦闘中なら魚雷内ですが、単に水中航行と言うだけの時なら
暇な水雷科が、この操作は位置に就いているのだそうです。

それを大きくなってから本で知りました。

小中学生の頃は、この掛け声と、泳ぎに行く時の服装・・・半袖半ズボンという
珍しい軍服が、出てくるのでした。

格好悪いと思っていましたが、父の青春時代の遺物だったのです。

一方、町での大人達の会話でも・・・

プロレス中継を見ていると・・・日本人が始めは勝っていて、終盤にスタミナ負け
してくるのを見て、こう言い始める。・・・

「日本はなあ・・・最初は、好いのじゃが、後が悪いんよ」っと、自嘲気味、
諦め気味に、太平洋戦争の結末と絡めてくる。

・・・・未だ、そういう風な時代なのでした。

それで、筆者も、周りの友人達から馬鹿にされまいと、
勇気ある風な意志を示さないといけなかったのです。

「戦争が始まったら志願して前線へ行く」

「切腹くらい出来る」

「指を切るくらい平気じゃ」

・・・・っっと。

でも、痛いだろうなあ・・・どういう風に我慢すれば好いのだろうか?っと思案し、
イメージトレーニングを続けていたのです。

 

【切腹実習】

半ズボンで走り回っていると、好く、膝をつく様な転び方をします。

それ以外にも、脛には、好く怪我をします。

そういう場合にも、当時の手当というのは、赤チン、ヨーチンを塗る程度が、
上出来の方です。

何もしないで放置するのが、ガキの常識でした。

 

筆者の家庭は公務員の父に、お山の分教場代用教員経験者の母という
顔ぶれですから、そういう平均に比べれば未だ衛生状態が進んでおり、
救急箱までは無い物の、オロナイン軟膏、包帯、絆創膏などがあり、
大変?でした・・・汗。

 

その大変さ!・・・で、傷が却って悪化するのです。

オロナイン軟膏などは「塗ると傷が膿んでくる」と言う事が、
子供達の間で常識的な評判でした。

傷口を密封して蒸れてくるからでしょうか?そういえばガーゼをあてて包帯を巻いても
同じ事が起きましたからね。

それで、膿が溜まってふくれてブヨブヨに膨れた皮膚。

又、地面や岩で擦ってて皮膚が一度破れて又くっついた皮膚の中に砂粒などが
挟まっている状態・・・・そういう傷を、たびたび経験しましたが、
これらは、その皮膚を切開しないと、上手く治りません。

そうしなければ、却って何時までも痛みが、取れないので、
思いを決めて(覚悟を決めて)自分のナイフで傷口を開いて、
砂粒を拾い出してから又閉じたり、傷口でも無いプヨプヨの皮膚に傷を付けて、
一直線の開口部から膿を出す作業を行いました。

簡単な手術ですね。

この場合の刃物は、切れ味の良いカミソリの刃、ナイフ肥後の守、等でした。

刃をあてる場所と切る量は、違いますが、自らの身体を自らの手で切り裂く、
・・・・この点では、切腹するのと同じ覚悟と思って、思い切りを付けて、
実行していました。

清水の舞台から・・・・っと言うのと似てるのかも知れません。

舞台を知りませんので、何とも言えないだけでした。

 

【ドス】

先出の曾祖父に作ってもらった「ドス」という名のミニチュア日本刀ナイフは
怖くて使いませんでした。

これは刃の部分の厚みが有りすぎで、皮膚へは、軽い力では切り込み難いのでした。

まるっきり日本刀を短く創っただけの様な物でした。

先の鞘と柄(グリップ)が有り、刃の幅が2センチ程厚みは6ミリ位だったか?
と言う刀身断面で刃渡り10センチほど。

本当に日本刀のつくりと同じように鋼を鍛えて創ったはずの物で、
外観は鏡の様にぴかぴか光っていました。

 

小学校5-6年位には研いで減って無くなってしまって惜しいことをしました。

ドスという名前は、長脇差しっと書き、本当は、やくざ者が使う長い刀の事を
言うのですが、こんな小さなナイフを何故か皆で、そう呼んでいました。

 

曾祖父が、こういう物者を作ってくれるとは???・・・・
祖母の伯父に本職の鍛冶屋職人だったという人物が未だ生きていて
(筆者が、高校頃まで未だ生きていましたが)習う環境にあったのでしょうし、
昔は百姓と言うのは何でも皆自分で行ったので、
百姓という職種百種からきた職業呼称です。

更に、武士というのも、自分の土地を守る為に生じた者で、
その土地とは百姓農業の為のものですから、農業と武士の区別も無い、
兵農未分離状態だったから武器である刀を作る位は朝飯前!・・・

増して、この曾祖父というのは、映画北の零年に描かれたのと同じ世代の人物。

何でも作ります。

実際に北海道へ行って開拓地を彷徨ったそうですし、その直前には、
先祖伝来の鎧甲を氏神たる山の小さな社へ、奉納していったというのです。

山神さんと言っていました。

それが、北海道から帰ってくると、水害に山崩れで、社殿は、谷川へ流れ出て、
鎧甲は、町中に・・・、町中の質屋へ流れ出て居たという笑い話でした。

誰かが盗み出して売ったのでしょう。爆笑!

 

面白い実話として・・・・本県:阿波国へ領地として入国したばかりの蜂須賀氏が、
国中の鉄砲や刀の調査を行ったところ、蜂須賀家臣団の所有する全鉄砲よりも、
民百姓の所有する鉄砲の数の方が遙かに多数で、驚愕したという笑い話が有ります。