産業機械用無線操縦装置-朝日音響株式会社

地方パートナー店募集中

↑メールはこちらへ

業者頭越し直販は
有り得ません。

TOP > AO技術講習集 > 3人のラストサムライ

3人のラストサムライ   (2010年5月)

JA5CLB 河野繁美

3匹の侍という連続テレビドラマがありましたね。

7人の侍というのは世界的に有名な黒沢映画ですね。

又ラストサムライというのは、ハリウッド映画でしたか…

 

最近、或る休日に友人が訪ねてきて外出をしたのですが、
ひょんな事から、御菓子の話になり、御菓子を製造していた我が社の
某社員宅を訪問する事が有りました。

確には、社員自身宅ではなく、実家の御父さん宅です。

的は「その御菓子の事を聞かせて頂きたい」と言う友人の希望でした。

 

行く前から「訪問先の方は、『社員が居る限り、赤字であろうが工場を閉めない』と
言って、全員定年を勤め上げるまで、続けた」という話を、道中で、
予備説明しながら行きましたので、会見中にも当然、自然と似た話になりました。

その中で、私も、赤字の時は社員の給料だけの為に個人ローンで借金して、
その社員達よりズット低い私の給料の中からローン返済してた話も出ました。

この時の話の結果、この社員の御父さんが、私の事を
「珍しく古い時代の任侠とか仁義とか言う考えを持っている」と評価していた
・・・と言うのを聞きました。

 

其処で、その理由解説がてら・・・次の、記事を書きましょう。

その・・・問題の次の記事よりも簡単に言えば「テレビで時代劇の見過ぎ!」ですか?
特に水戸黄門!・・・・爆笑。・・・

 

ソレでは、始まり始まり~ ・・・何?、テレビと大差ないって???

 

 

今回、此処に書きますのは、ラストサムライの画面描写に最も近い私の記憶を
述べようと言う物です。この3人とは私の祖父達の事です。

亡くなった順に、母方の曾祖父。同じく、祖父 、父方の祖父・・・と計3人です。

3人とも昭和まで生きた訳ですから、モウ丁髷(チョンマゲ)も有りませんでしたし、
刀も差して居ませんでしたが、それぞれに武士らしい心構えというか・・・
気構えを持った人達でした。

ただ、丁髷を崩さない為の箱枕(注)で寝て居たのを脇町の母方では見ています。

(注:箱枕とは銭湯の椅子程度の大きさと形状で、前後左右下が板面。上だけ板に綿などを入れで布張りクッションの構造でした。その板で囲われた箱形状の中に貴重品を入れて寝る訳です。側面の一面に穴があって、物を出し入れするのですが、文字通り【枕探し】と呼ばれる泥棒が手を入れて盗もうとしても、寝ている者に直ぐ判る感触の優れ物です。)

 

私は、それぞれの侍?から、遊びは?食べ物は?何が好きなのか?
学校では何をするのか?運動会では何等賞か?勉強の方は、どうなのか?っと
聴かれて会話してきたのです。

 

曾祖父、祖父達、この侍世代御一家の暮らしていた脇町の家は、
立派な御屋敷では無く、長屋の一番北の端でした。

南北の通りに面していますが、その通りの対面には長い瓦屋根付き土塀が有り、
向こう側は寺の敷地で、墓地か?・・・・草だらけで、二階からも、よく見えませんでした。

この道を、侍同士が刀を片手に追い駆けっこ・・・
時代劇のロケシーンにピッタリの風景です。

 

そして玄関から続く、土間通路を抜けて、長屋裏まで行くと、
広場の中央に井戸があり、文字通りの井戸端会議場・・・・その周囲には
広場を取り囲む様に、各戸向けの物置があり、その中の一区画は、
祖父 曾祖父達の家向けです。

 

其処には、石臼やら、鍛冶道具やら有って、珍しい事!に眼を見張りました。

石臼に拠る、豆轢き作業なども、じーっと見つめ続けました。

何を考えていたかと言うと・・・「石同士の摩擦で、石の粉が出て混入しないのか?」
を心配していました。その質問も、してみました。

 

又、この、物置群による囲いの共同広場のよりも、更に内側には、戸別の裏庭が有り、
其処では、小さな木箱に金網を張って、ウサギが飼われていました。

ウサギ小屋ですね。

近くの、脇町高等学校運動場から、草を取ってきては餌として、
このウサギに食べさせました。

金網の編み目から、草を差し込むと口をスリ寄せてきて、もぐもぐ食べるのが可愛くて、
一日に何度も何度も、餌やりをしました。

体毛は白と灰色と2種類居て、目の色は赤と、灰色の2種類でした。

 

体毛の白い方の目の色が赤で、コレを、「何で?何で?」と聞いて、
「白って云うのは他に色が無いのだよ。眼にも、色が無いんだよ。
其処で、色の無い場所に、血が、一杯流れてて、
その色が赤く透けて見えてるんだよ」ッという様な説明が聞けて、
一応、理解して納得した様な気がします。

 

全てが、この様な調子で、先の石臼も、鍛冶道具を使ってる場面も、
後に、餅つきが行われる時、モット経って、餅つきが、機械によって行われる時に
モーターにベルト掛けで行われる場面に至る迄、この様に「ナンデ?ナンデ?」を
続けて居ました。勉強になりました。

 

親子3人暮らしの頃、絵本を見れば、母にも、「ナンデ?ナンデ?」っと言って、
同じ様な答え方が返って来ていたのは、此処の祖父の影響だったのでしょう。

祖父は、職業が、教育者ですからね。母も又、その七光りでか???
お山の分教場に於いて、戦時中の代用教員だったと云います。同じ教え方かあ・・・笑

 

これらの人達は、それぞれ、映画のラストサムライとも又違う環境に生きて居りました。

しかしながら共通して言える事は、江戸時代の官僚化した武士では無い侍の状態を
保って、生きていた事を私の目で直接ハッキリと見て触れあって会話して
確かめて来たのです。

 

その意味で私は、本物の侍と会った最後の世代でしょう。

其処で、3人が3様に、どの様な侍らしいのか、お伝えする為に、
本文を書こうと決心しました。

最初の紹介と同じく本文説明も、亡くなった順に書きます。

 

最初は曾祖父。

これまた映画のタイトルで、恐縮ですが、近年放映された【北の零年】世代で、
実体験者です。

 

北の零年とは幕末に、阿波藩蜂須賀家が、徳島県となって、その家臣達が、
県の公務員になる時、蜂須賀家の直接の家来ではなく、
蜂須賀家の筆頭家老:稲田家の家来(陪臣という)達が、
1ランクずつ落ちる地位となって、公務員となれないであろう事から
「稲田家も独立藩にしてくれ」と言う分藩運動から内乱が起き
(稲田騒動=庚午事変)日本最後の切腹が行われ又、稲田家には、
新領地として北海道の一部が開拓地として与えられる。と言う事件です。

 

稲田家というのは、最初、阿波国内で脇町周辺の1万2千石
(これだけでも小さな大名格:大名とは1万石以上)なのに、
後の手柄で淡路一国6万石とかを加増されて、十分に大名と言える能力だった。

にもかかわらず、三河以来の、主従関係を、稲田氏が律儀に言って、
自分に貰った領地を主君の蜂須賀氏へ差し出した上で、
家臣として仕え続けた美談が後に、家臣達にとって仇となってしまったのだった・・・・

徳島から、洲本城下へは切り込みや焼き討ちが行われ、その首謀者に対して、
先に述べた切腹騒ぎ。小さな飛び地の現・美馬市脇町に対しても切り込みが噂され、
母の実家では、阿讃山脈を越えて、香川県側へ逃げたそうです。

 

おそらく、この時の家長が、曾祖父、一人息子が祖父でしょう。

曾祖父の妻たる曾祖母は長生きして、私が中学か高校時代まで生きましたので、
生まれが慶応時代とも聞きました。

 

慶応年間とは、明治の前で、慶応4年が明治元年と同じ年です。

面白い事に、この曾祖母の誕生日は2月29日で、4年に1回の閏年、
慶応年間自体が4年間しか無いので、最近の閏年をカレンダーで捜して、
4年ごとに遡れば、慶応何年生まれかハッキリするでしょう。

そうしますと、曾祖父の生まれ年を私は知らないのですが、
多分曾祖母と殆ど同じか?やや上と想像も、つきます。

 

私が、この曾祖父に出会ったのは満3歳になってからです。

父の転勤で、脇町へ引っ越して直後に未だ、借家が見つからないのか、
暫く曾祖父母、祖父母、叔父叔母9人の一家へ臨時同居させて貰った時です。

私の親子一家3人が居候した短い間に、この曾祖父は亡くなってしまい
極めて短い間のふれあいでした。

 

体格は年齢により痩せて筋肉質が見え、仁王像の様で、顔は彫りが深く眼光鋭く、
今にも、カーッと言う気合いと共に斬り掛かる様な雰囲気でした。

(無論髷もなく、刀も差してない昭和時代ですが…)

暇な時には炭火をおこして鉄をまっ赤に焼いて、トッテンカンと打ち、
鍛冶屋の真似事をしている・・・と思ったら、私が小学生になった時、
この曾祖父が造ったという工作用の小刀を渡されました。

束(グリップ)鞘も木で自作した物でしたし、刀身は、全く日本刀のミニチュアでした。

刃渡りが10センチ、刃幅2センチ、刃厚5ミリ程度しか無いっと言うだけで、
形状は全くの日本刀! 

市販のナイフ 肥後の守と併用しながら工作に使っていましたが、
小学校5-6年の頃には、遂に、研いで研いで小さくなり、無くなってしまいました。

曾祖父には、同年代と思われる友人達が訪ねて来ては、
大声で、好く昔話をしていました。

元侍なのか?町人なのか?幼少の私には、区別もつきませんでしたが、
どっちも居たのでしょう。「あのときは***でのう」 「そうよ。ガッハッハッハ」ッと
火鉢を囲んでの大法螺話って感じでした。豪傑・・・

 

幼少時、この火鉢に吃驚!

友人がきて、囲む火鉢を増やそうと、元々火のある火鉢を持ってきて、
その中のまっ赤な炭火を、新しい火鉢に移す作業の時・・・
道具を持ってくるのが面倒だ!っと曾祖父、・・・いきなり、真っ赤な炭火を
片手で掴んで持って、新しい火鉢の中へポイッ!。

吃驚仰天!尊敬の眼…

 

今の映画スター 渡辺謙とよく似た文字「縑」と書いてカトリと読む名前でした。

先に話題にした映画の主役を演じた俳優が渡辺謙だったのを彷彿してしまいます。笑。

 

そうしますと【北の零年】で相手役の女優 吉永小百合…対応して、
曾祖母…ナツという名前だったのですが、私の悪戯に対する天敵役!は、
後に聞いた話ですが、若い頃、相当な美人だったとの話…

ソレが、当時の天敵は、慶応生まれで当然に梅干し!の7-80歳…
今、美女という吉永小百合が、私が子供の頃は子役スターで、
ちっとも可愛く見えない…そこで美人だったという曾祖母の顔つきを思い出して、
当時は妙に納得していた様な気がした物です。

「大人の言う美人と、子供の見る可愛いとは違うのだ!」って…爆笑

 

さて、この曾祖父が、亡くなった時か?その後数年して祖父が亡くなった時か?
好く覚えていませんが(そうです。1世代間にしては短いのです)曾祖母か祖母か?
どちらかが、2階からの階段を、ドドドッと降りてきて開口一番叫んだ言葉に
吃驚した記憶が有ります。

まるで、アニメ「サザエさん」の様な場面です。

 

「とっ父さんが、死んどる・・・」

一同ガーーーンと唖然。

 

「父さん」と言うのが、子供達の「父さん」なのか?自分の義父なのか?に拠って、
誰が誰の事を言ったのか?・・・の可能性が分かれてしまい、今と成っては、
どちらか?判断が着きません。

 

いずれにしても葬式が始まりまして、死者の背が高いので、棺桶に入らず、
皆で、困っていました。「膝を曲げろ」ッテ事で解決した様に思います。

日本人離れして足が長くて格好良かったのでしょうか???・・・

 

 

2番目は、最初に書いた曾祖父と曾祖母の一人息子(長男)で、私の母の父親です。

先に、「曾祖父と数年離れずして無くなった」と書いたのは、日中戦争で召集を受けて
陸軍で従軍した際に、結核に感染して帰り、それ以来ずっと、
寝たり起きたりの生活だったからです。

ソレまでは教職に在り、国民学校の先生という事も聴きましたので、
太平洋戦争中も、教職期間は有ったと考えられます。

 

この祖父は、その父親である曾祖父と違って、
「ガッハッハ」などと大声を立てる事も全く無く、畳に正座して、ぴーんと背筋を伸ばして
静かに読書してるって雰囲気でした。

 

この祖父が亡くなったのは、私が小学校2年から4年までの間だったと思います。

葬式になって、又、棺桶に入らない程背が高いので、皆で困っているのです。

葬式の場で「一寸前に同じ事だったのに・・」と声を出して笑って、
怒られてしまいました。

曾祖父と親子して2人とも、180センチを超える身長だったのでしょう。

 

ドウ?侍か?と言うと、戦時中の、行け行けムードの中
「我が家の娘達は軍人の嫁には、出しません」と言ったとか・・・・・・

純粋な教育者の立場だったとも言えます。

世間の好戦的ムードに流されない・・・大切な事です。

「皆が、やってるから」という理由で、虐めに参加する様な事が無い様に・・・
最近の先生!

 

それでも、この祖父に対してのイメージとして私が思う軍歌が有ります。

【愛馬進軍歌】…馬を労る優しい軍人の唄です。

叔父の処に、馬に跨った軍服姿の大きな祖父の写真が有ったからでしょう。・・・・

 

処が、この優しい祖父に(【優しくない】訳では無いのですが)
吃驚した場面が有ります。

ほんの短い同居中の或る日。私の誕生日だったでしょうか?
「目出度い。すき焼きにでもするか?」と言い出した祖父。

其処で「肉を、どうするか?」ッとなった一同。祖父が「ウサギを潰そう」・・・

 

私は「潰そう」の意味が分からずに「ナンデ?」です。

(先出の話の)飼っていた可愛いウサギを、殺して、肉を食べるのだという意味が
分かった時のショック!

「何時も買ってくる牛肉だって牛を・・・」と幾ら説明されても、コレは納得出来ない。

その日とうとう、食べられないままだった。

彼の優しい祖父が、あんな事を言い出すとは・・・ソレも大ショックだった!・・・・・・

 

飼ってる可愛いウサギを、殺して、肉を食べる・・・・

「食べる為に飼ってた家畜なのだ」と云う説明にもどうしても、納得出来ませんでした。

理屈は合ってるのですが、どうしても・・・・

 

この祖父の享年は、後に54歳だった様に聞き覚えていますが、不正確でしょう。

それでも、モット生きた祖母や曾祖母よりも、好く覚えている内です。

祖母、そして曾祖母と言う逆の順ですが、私の年齢が上がって、
記憶は確かになるはずですが、歳が幾らという認識が全く出来ていませんでした。

 

その後、私が高校生になって以降、この祖父の長男(叔父)が
「先祖の墓寄せをするから」っと、山中の、庄屋屋敷跡近くの墓探しに
行きました処・・・

(末端の武士は、帰農して、庄屋という格の処遇に成っていたのです。それは、蜂須賀家や稲田家の家臣に限らず、旧来土着していた山岳武士と呼ばれた人々にも、刀狩りと共に同じ処理が成された様です)

・・・若い頃の祖父を知る、当時の乙女達が現れ「アンタの御祖父さんはナア、
色白で男前でスラっと背が高うて、色白で細いのに力持ちで相撲が強かった」ッと
説明してくれました。ファンクラブでしょう。笑 

 

この病気がちの祖父が、私の(多分3歳の)誕生日に丸いケーキを買って
美馬郡(現・美馬市)脇町から、那賀郡(現・阿南市)富岡町まで、
列車で来てくれたのでした。

3時間以上の列車旅でしょうか?体力を落として、病症に伏しッ切りとなり、
遂には亡くなってしまう切っ掛けが、この旅ではないか?と、悔やまれます。

このケーキ・・・3歳の時・・・昭和28年に、なります。

「もはや戦後では無い」等と言われる前です。

どーんな、豪邸の、孫か?御ボッちゃまか?ッと思えば・・・、
爆笑、貧農?の孫で、下級公務員の息子・・・

 

3人目の侍が、その貧農?になります。

しかし、或る面で最も侍らしい一面を見せてくれた父方の祖父でした。

7人の侍に出てくる一人か?っと云う風貌。

但し、7人の中の指導者役:志村喬の様な恰幅は有りません。

田舎の百姓家の親父です。

それは伝家の宝刀で試し斬りを見せてくれたからです。

 

その刀って、今の様に、床の間へ飾ってある鏡の様に磨かれた刃ではなく、
納屋の奥へ、一揆の時の為に隠してあった実戦用の刀でした。

全体に薄く錆びた刀身だけが、油紙に包まれていた。

・・・コレまでに何人の血を吸ったのか?

・・・タンスから出してきた鍔を長い時間掛けて取り付けて

・・・更に束(グリップ)を 付ける。

長すぎて、子供の神経では飽きてしまう。待ちきれずに苛々した。

でも、近所の餓鬼達とのチャンバラごっこの時や、学校で級友達との話の時、
祖父ちゃんの処には本物の刀が有って、斬ったのを見た」ッと自慢出来る魅力の為に
耐えた。

 

やがて、竹束が用意されてきて、中央の長い竹を軸にして地面に立てられた。

抜き身、・・・といっても、最初から鞘を一度も見ていない・・・・の刀を持った祖父が
斜め上から、ヤーーッとばかり袈裟懸けに切り下ろした。

美事、一度に全部切り飛ばされていた。

何時も、日焼けした顔に、農作業用の古くなった服を、だらしなく着こなしている、
薄汚れた祖父が、この時ほど、強そうに、偉そうに見えた事は無い。

 

・・・・その後である。私が、子供心に、「(父が公務員になって外れたとしても)
800年23代続いたという家を継がないとイケナイ」ッと思ったのは・・・

 

その800年前に海賊から変身して帰農定着する前というのもあるだろうということも、
薄々考えながら「農業は辛い」と言うことは別世界の物と横へ置いてしまい・・・・・